色について色々と考えたこと
パインアップルはどうして黄色いのか。子どもの頃からの疑問を、まじめに考えたのは、わりと最近のことだ。
調べてみると、パインアップル自身は、黄色をひとつも持っていないらしい。
光が当たると、パインアップルの表面は、その光のほとんどを吸い込んでしまう。吸いきれずに跳ね返った、ほんのひと帯だけが、目に飛び込んでくる。つまり「黄色」とは、パインアップルが受け取らずに突き返してきた色のことだ。黄色はパインアップルの中には存在しない。跳ね返った光の中にあって、最後はあなたの頭の中で組み立てられている。なかなかの話だねえ。
もっと不思議なのは、白い昼の光だ。色が何もないように見えて、ほんとうは全部の色が、ほどけないように一本に束ねられている。プリズムや、雨上がりの空に浮かぶ水滴の一粒が、その束をほどく。虹は、どこか遠くからやってくるわけじゃない。最初から、ありふれた光の中に、たたまれて入っていた。
そして面白いのは、その同じ光が、色を見せるだけの役目ではない、ということ。朝の光は、体の中の時計を、そっと合わせ直す。肌に届けば、骨に必要なものを体が作りはじめる。葉が光を畳んでためこんだエネルギーは、めぐりめぐって、今日の食卓の野菜の中で眠っている。お母さんは早く起きて光を浴びてきなさいっていうのは、訳があったのだねえ。
見ることと、生きること。どうやら、元は同じひとつのことだったのだ。
まだ言葉をひとつも話せない赤ちゃんでも、もう色を「種類」として見分けている。赤の仲間と青の仲間のあいだに、自分でちゃんと線を引いている。色の区切りは、誰かに教わるより先に、もう体の中に入っている。と研究が発表されている。
それでいて、名前をつけると、見え方が変わる。「青」と「藍」を別々の名前で持っている人は、その二つを、ひとまとめにしている人より素早く見分ける。藍を、青とは別の一色として立てておくことには、ちゃんとわけがある。
ところで——日本語の「色」という字は、変なところで顔を出す。景色、顔色、色気、物色。どれも、光の色とはまるで関係がない。なのに私たちは、誰かの顔色をうかがい、誰かに色気を感じ、本屋で本を物色する。
運命の「運」が、どうして「運ぶ」と同じ字なのか。それと同じことで、昔の人はたぶん、薄々わかっていた。色とは、そのものが何を吸って、何を返すか。つまり、それが何者であるか、ということだ。だとすれば、人にも色がある。そう言いたくなるのも、無理はない。
色の専門家ではないけれど、心相数に三つの色が割り当てられた時に、色々と思い当たる節があって、色んな不思議な気がしてならない。子どもの頃からすでに色んな幸運色を見付けようとして、黄色のパインアップルが好きだったこと、プールや海が好きだこと、青より紺色、色々ねえ。こういう小さな発見でもなんだか誰かに運んでくれたラッキーをお裾分けしてくれた気分になる。感謝深謝。
出典
- 生まれて間もない赤ちゃんの色の見分け:Bornstein, Kessen & Weiskopf (1976), J. Exp. Psychol. HPP
- 色の名前と、見分けやすさ(「青」と「藍」):Winawer ほか (2007), PNAS / Regier, Kay & Khetarpal (2007), PNAS
- 脳の中にある「色の仲間分け」の場所:Brouwer & Heeger (2009), J. Neurosci.
- 色が心を動かすこと:Elliot & Maier (2014), Annu. Rev. Psychol.
- 日本人と白:Saito (1996), Percept. Mot. Skills